錫杖寺の近代
錫杖寺の近代 略年表
慶応四年・明治元年(1868)
大政奉還。徳川幕府崩壊。明治新政府樹立。
神仏分離令、廃仏毀釈運動広がる。
明治五年(1872)
埼玉県足立郡四十九か寺の触頭となる。
明治九年(1876)
江戸城大奥最後の御年寄瀧山が歿し、当山に葬らる。
明治十八年(1885)
七月、地蔵堂再建。
明治十九年(1886)
一月十六日、智積院(京都)末となる(『智積院加末張』より)
明治四十一年(1908)
御成門の再建。永瀬氏の信施により宇都宮城より移築す。
大正五年(1916)
鐘楼堂再建す。
昭和四十八年(1973)
四月、地蔵堂を現在地に移設。
昭和五十年(1975)
十月、本堂・客殿落慶法要厳修。御成門修復。
昭和五十八年(1983)
四月、本坊・書院・庫裡等落慶。
昭和五十九年(1984)
梵鐘を新鋳。鐘楼堂を移築。
寺容を整え中興す。
平成二十年(2008)
十一月、錫杖寺ご詠歌講創立六十周年として「かわぐち地蔵」の開眼法要厳修。
慶応四年(1,868)二百六十余年に亘った江戸幕府が崩壊し、明治新政府が樹立されると『神仏分離令』が布告され、廃仏毀釈運動が広まります。旧弊を打破し、神武天皇創業に復古するという「王政復古」による神祗崇拝の風潮によるものですが、この運動により多くの寺院や仏像が破壊されました。境内地はすべて官有地とされ、全国の各寺院は一様に荒廃への道を辿ります。
明治五年(1,872)錫杖寺は埼玉県足立郡の蝕頭として仏法興隆の運動を展開することになりました。『右ハ、第廿三区寺院蝕頭申付別紙之通御達相成候付テハ諸事差配ヲ受ケ不都合筋無之様可心得此段相達候事 申七月 埼玉県庁 朱判』これは、錫杖寺中興三十二世胎淨大和尚の代のことで、極端な世情不安の時代意にあっての労苦はまさに筆舌に尽くせぬものがあったでしょう。錫杖寺の地蔵堂は、江戸時代には氷川神社(現在の川口神社)の傍に移されていましたが、再び現在の境内に移し再建されました。
明治十九年(1,886)錫杖寺は智積院と本末関係を結びます。嘉永六年(1,853)に刊行された『江戸誌』には、錫杖寺は智積院末と記されていて、おそらくこの頃から智積院とのつながりがあったのかもしれません。
明治四十一年(1,908)ついに御成門が再建されました。永瀬氏の 信施によるもので、戸田忠寛(七万七千石)の居城であった宇都宮城の資材を移し建立したもので、柱には戊辰の名残として刀傷などが見られます。
大正五年(1,916)岩田氏の寄進によって鐘楼堂が建立されました。
昭和初期は軍閥のみが跋扈し、社会全般が低迷した時代です。錫杖寺の寺運もまた例外ではありません。
ここから錫杖寺の現代史が始まっていきました。