錫杖寺の縁起

錫杖寺の縁起 略年表

   天平十二年(740)

聖武天皇の霊告によって御后の光明皇后の病平癒祈祈祷のため、僧行基を武州川口村に遣わす(『慈林略縁起』より)

このおり、僧行基によって錫杖寺の現在地に草庵が結ばれたと伝えられる。


弘長~弘安年間(1261~1288)

(鎌倉期)

京都・泉涌寺第六世・願行上人(憲靜)鎌倉にあって東国を教化す(『律苑僧宝伝』) 

願行上人・僧行基ゆかりの地(現在地)に草庵を結び、大念仏を結集す。


永仁三年(1295)

四月七日、願行上人示寂。一説に建治二年(1276)八月二十八日。


文和三年(1354)

 (北朝歴)

板碑造立さる(当山所蔵)


長禄元年(1457)

太田道灌(持資入道)江戸城を築く。


寛正元年(1460)

法印宥鎭は法脈を継ぎ、堂宇を建立して当山中興。太田道灌の信施によると推察される。

法印宥鎭は周辺地域に教勢を張る。当山が(常法)談林となったのはこの頃とされる。


文明年中(1469~86)

法印宥鎭、僧圓勸とともに太田道灌の戦勝を祈願す。


文明十八年(1486)

五月二十一日、法印宥鎭示寂す。


延徳三年(1491)

印融、しばらく錫杖寺に止宿し『諸尊表白抄』を著す(『諸尊表白抄』奥書・『本朝高僧伝』)

大いに宗風宣揚に務め、談林を起こす(俗に関東十一談林という)


明応四年(1495)

北条早雲、小田原城に入る。


永正十六年(1519)

八月十六日、印融示寂。八十五歳。


天正十八年(1590)

後北条氏滅ぶ。徳川家康、江戸へ入部す。

「こかわ口」(川口町)は天領となる。宇田川助右衛門尉出雲、川口の名主となる。

錫杖寺は寶珠山地蔵院と号し、天平十二年(740)の春、行基菩薩によって草庵が結ばれたのを濫觴とすると伝えられています。行基菩薩が聖武天皇の命によって、光明皇后の病平癒祈願のために当地を訪ねた折のことといわれています。今から千二百五十余年も昔のことで、史実としての確証に乏しく、錫杖寺草創の時代はすでに伝説の世界と交錯しているといえましょう。


弘長~弘安年間(1261~1288)は鎌倉にあって広く東国の教化にあたっていた願行上人(憲靜)は、行基菩薩ゆかりの地に再び草庵を結び大念仏を結集しました。願行上人は顕密浄律の諸宗に通じ、特に三宝院流の事相に達した高僧でこの法系を顕行方と称します。願行上人は源頼朝の妻・政子や執権・北条時宗の帰依も厚く、当時荒廃の極みにあった大山寺(神奈川県・大山不動)も中興し、永仁三年(1,295)四月七日に遷化し、宗燈律師の号を賜りました。この事から錫杖寺では、行基菩薩"開山の祖"願行上人"中興の祖"と申し上げております。


寛正元年(1,460)錫杖寺は宥鎮大和尚によって堂宇が建立されました。これは長禄元年(1,457)江戸城を築いて武威を誇った大田道灌(持資入道)の信施によったといわれています。錫杖寺は江戸城の鬼門にあたっており、江戸城守護の意味もあったと思われます。一説によると足利八代将軍義政が、満海法師の勧めによって錫杖寺の七堂伽藍を建立し、宥鎮大和尚を山主としたともいわれています。

満海法師は、四代将軍義持に仕えた武士で、或る夜に夢中に霊告を得て出家し、三井寺(滋賀県)や高野山(和歌山県)などで修行した後に諸国を巡錫して布教しました。満海法師は義政の厚い尊崇が寄せられた高僧で、羽黒山(山形県)を経て終焉の地となる米沢に至る途中に錫杖寺に止宿したとも伝えられており、この折に錫杖寺の七堂伽藍建立を義政に勧めたとも考えられます。

宥鎮大和尚は錫杖寺を拠点として強力な教線を張り、吉祥院(川口市)をはじめ七か寺(都内)を中興、開創しています。錫杖寺が談林として多くの学僧を擁し、事相・教相の学問所となったのもこの頃でしょう。文明十八年(1,486)五月二十一日、宥鎮大和尚が遷化し、宥余大和尚が法嗣となりました。

「~当寺ハ古ヘ願行上人ノ結ビシ庵室ナリシヲ僧宥鎮其法脈ヲ継デ寛正元年一寺トセリト云。故ニ宥鎮ヲ開山トス。相伝フ、文明十八年五月二十一日白日天ニ上り去シト。上天ハ則入寂ノコトニシテ、尊崇ノ餘詞ヲ霊異ニセシルナルベシ~」(『新編武蔵風土記稿』)

中世における真言宗(新義)の発展は、中世談林(古談林)の力に寄ったといわれ、錫杖寺もその一翼を担っていたわけです。


延徳三年(1,491)春頃から、弘法大師の再来と尊崇され、密教教学の興隆に尽力した印融大和尚が錫杖寺に止宿して薯述に専念しました。『諸尊表日抄』の奥書に「延徳三年辛亥四月一日、於武州足立郡河口錫杖寺、依求法弟子之所望抄之 沙門印融」と記されています。また『印融法師の研究』(伊藤宏見薯)の『釈論各日私抄』の著述でも「錫杖寺での弟子らの要望に応じたものではないかと思う」と述べています。印融大和尚は関東各地の真言宗寺院の復興に努め、永正十六年(1,519)八月十六日、八十五歳で遷化しました。