寺 院 紹 介

錫杖寺中興第37世 現薫 江連俊裕

 錫杖寺の公式ホームページをご覧いただきありがとうございます。

錫杖寺は、行基菩薩により草庵が結ばれたことを縁起とし、江戸時代になると徳川家と大変深いご縁をいただき、歴代将軍より御朱印寺領二十石を賜り、歴代将軍による日光社参の際の休憩所と定められ、由緒と格式をもつ寺院として開創以来法灯を絶やすことなく燈し続けております。

 私も住職として歴代の住職から受け継いだ法灯を守ることはもちろん、副住職執事を中心として役僧と共に、時代に合った開かれたお寺として、地域の人たちのふれあいの場となるような活気あふれる愛されるお寺でありたいと思っております。

 御朱印や御守など、真心を込めてお書き入れいたします。

 ぜひみなさまお参りください。

本堂

昭和五十年(1,975)に建立された本堂です。それ以前は、徳川13代将軍家定公の寄進によるものでしたが老朽化に耐えられず建て替えとなりました。

御本尊・延命地蔵菩薩は、行基菩薩の作と伝えられています(『江戸志』より)

日本では観音菩薩と共に広く人々の信仰を集め、お釈迦さまの入滅後56億7千万年後に弥勒菩薩がこの世に現れるまで六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天上)すべてを救済する仏さまとして特に信仰を集めています。また、特に子どもを護ってくれる仏さまとして広く信仰を集め、現在でも多くの子どもたちがご利益を授かるべくお参りに足を運びます。

錫杖寺の御本尊・延命地蔵菩薩は、三宝光輪と瓔路とを具し、総金色、玉眼の地蔵尊で、内陣正面宮殿の内に安置されています。

地蔵堂

錫杖寺の地蔵堂は初め門前にありました。しかし江戸期に当山が日光参詣の御休息所となったことから、門前を広くすることになり氷川神社(川口神社)の傍らに移され、明治の神仏分離令が発布された年に再び境内に移築されました。この頃は小堂でしたが、明治十八年(1,885)七月に6名の信徒の信施によって再建され、昭和四十八年(1,973)三度現在の地に移されました。 

地蔵堂内には、江戸期以前の開眼と推定される半跏の延命地蔵尊など厨子に納められた秘仏が多く納められていますが、石彫の坐姿地蔵尊をはじめ、令和を迎えて諸尊の中から護国鎮守を願い不動明王を常時ご開帳しご縁日には地蔵尊護摩が修法されることから多くの信仰を集めています。

江戸府内外に起こった事柄を年表に記した『武江年表』によると、錫杖寺のご本尊はしばしば開帳され、門前市をなす賑わいであったと記されています。当山に所蔵される『地蔵祭画幅』に往年の面影を偲ぶことができます。

弘法大師

錫杖寺は真言宗の寺院として弘法大師空海の教えを引き継ぐ寺院です。特に新義真言宗関東七ヶ寺として三宝寺(練馬区)・宝仙寺(中野区)・総持寺(足立区)・三学院(蕨市)・明星院(桶川市)・一乗院(熊谷市)といずれも古刹で真言宗の興隆に尽くしてきました。

「川口歴史読本」(但馬太良著)には「~朱印状のある寺のなかでも、その頃、真言宗では錫杖寺が浦和市の玉蔵院・蕨市の三学院とともに、臨済宗では長徳寺が新座市の平林寺・久喜町の甘楽院とともに県内の寺のなかでは格式が高く、また幕府より特別の待遇を受けていました~』と記されています。

錫杖寺は関東八十八ヵ所霊場第76番(涅槃の霊場)に指定され、お遍路さんをだけでなく地元の檀信徒からも多くの信仰を集めています。 

稚児大師

令和5年の弘法大師ご誕生1,250年を記念して建立されたもので、弘法大師の子どものころのお姿を現しています。

この稚児大師は、錫杖寺ご詠歌講創立70周年記念としてご詠歌講員による厚い信施により開眼供養されました。

総本山智積院の大師堂の前にある稚児大師と全く同じお姿をしており、開眼供養してから修行大師とともに多くの信仰を集めています。

弘法大師像(修行大師)の隣にありますので合わせてお手合わせください。

川口天満宮

天神とは天満宮、つまり菅原道真公を祀った神社です。

鎌倉時代には正直者を守り、邪悪をころす神とされていましたが、室町時代以降になると文学諸芸の守護神として厚い尊崇が寄せられました。

錫杖寺の天神社の御神体は道真公自作の御神体で「~身体は菅公の自作なり。何の頃か旧地にありし梅樹の根より穿出せりと云」(『新編武蔵風土記稿』)とされ、その昔に天神社の傍らにあった梅の木の根元から掘り出されたと伝えられています。小学校から大学などの受験をひかえた学生や親達が一心に祈願する姿をよく見かけますが、国家資格などの試験を控えた信者の姿もよく見かけることがあり、1年を通して多くの檀信徒の姿を見ることができます。

福禄寿尊

『仁王経』のなかに「七難即滅七福即生」という教えがあります。つまり『仁王経』に説かれる教えを信ずれば、この世の七つの大難はたちどころに払われて、七つの福がやってくるという意味です。室町時代末期頃から民間信仰として七種の福神が考えられ、福徳長寿を祈念するようになったといわれています。

この「武州川口七福神」は川口市内の七福神を安置する古刹を巡拝するもので、錫杖寺には福禄寿尊が安置されています。福禄寿とは、福は幸福・禄は財産、寿は延命長寿をあらわし、中国の道教でいう「人々の最高理想」をあわしています。すなわち福・禄・寿の三つの理想を体現した神ということです。

像容は、丈が低くて頭が長く、白髪童顔で経巻をつけた杖を右手に鶴を従えているものが多く、神仙の姿をそのまま現したといわれていますが、錫杖寺に安置される尊像は右手に経巻をもち、左手に杖を持つ像容です。

かわぐち地蔵

錫杖寺の御詠歌講創立60周年を記念して建立され、開眼供養された新しい仏さまです。開眼供養の際は、錫杖寺御詠歌講の講員によって多くの御詠歌が奉詠されました。多くの思いを背負ったありがたいお地蔵さまは、頭に触れること、頭を撫でることでご利益を授かるだけでなく、子どもたちの健康や学業成就などを祈ることができます。

よく見ると少しだけ頭の色が違うのはそれだけ多くの檀信徒がお祈りをした証でもあります。

大奥御年寄瀧山墓所

錫杖寺には江戸城最後の御年寄であった瀧山が葬られています。文政六年(1,823)に16歳で大奥へ上がり、類い稀なる才幹をみとめられ、御年寄に昇進しました。御年寄とは大奥の総取締役として「表」の老中に匹敵する大奥第一の重役を表します。瀧山は十三代将軍・家定が世子(世嗣)の頃から西の丸の御年寄をつとめ、家定が将軍位を嗣ぐとそのまま家定に従って本丸に移り御年寄となり、十四代将軍家茂の代にわたって御年寄をつとめました。

十四代将軍継嗣問題で、紀州の徳川慶福を擁立する「南紀派」と一橋慶喜を擁立する「一橋派」が対立し、幕府の重臣や有力諸侯はもちろん、江戸城大奥の中にも激しい対立と抗争がおこりました。瀧山はこの対立抗争にあたって、大奥の慣例に従い慶喜の擁立を阻止したことで知られています。

結果として十五代将軍位を慶喜が嗣ぐことに伴い大奥を退きました。

瀧山は大奥を退いた後は侍女の仲野の生家があった川口にて過ごし、明治九年(1,876)一月十四日に七十一歳で歿し、錫杖寺に葬られました。

青山地蔵尊

参道左手の格子扉の小堂に鋳造の地蔵尊像が安置されています。一見したところ胸像らしくもあり、また見ようによっては坐姿の地蔵尊に見える尊像です。

川口市で長年鋳造を業としてきた青山某の遺言によって似顔そのままを鋳造して安置したことから、俗に「青山地蔵」と呼ばれ鋳物職人を中心に町の人々から除災招福・商売繁盛の霊験顕かな地蔵尊として信仰されてきました。鋳物によって造られた大変珍しい尊像で、鋳物の町である川口ならではの貴重な仏さまとして現在は文化財としての側面も兼ね備え地蔵菩薩がいかに民俗学的にも身近な存在として信仰されてきたかを知ることのできる仏さまです。 

御成門

かつて御成門と言われ、将軍のみ通ることを許された山門が錫杖寺には存在していました。しかし、天保九年(1,838)錫杖寺は災禍に罹り諸堂宇を焼失しました。天保十二年(1,841)には壇信徒諸家の信施によって再興されますが、残念ながら嘉永五年(1,852)八月に川口町の大火によって再び灰燼と帰してしまいました。

しばらく寺院の顔である山門が失われていましたが、明治四十一年(1,908)御成門が再建されました。永瀬氏の特段の信施によるもので、戸田忠寛(七万七千石)の居城であった宇都宮城の資材を移し建立したもので、柱には戊辰戦争の名残として刀傷などが見られます。

古仏(地蔵菩薩石像)

江戸期に建立された地蔵菩薩の石像です。

となりの観音菩薩と共に長い歴史の中で残念ながら欠損が見られますが、錫杖寺の歴史を最もよく知る仏さまのひとりです。

信者さんの手により線香立てをご奉納いただいたことにより、お参りの際にお線香を手向ける人が多くなりました。

錫杖寺の歴史をぜひ感じてください。

八面塔六地蔵尊

地蔵堂側の植込の中に有蓋八面塔があります。六面には六地蔵尊が浮き彫りにされていて、二面には金剛界・胎蔵界の大日如来が浮き彫りにされています。六面塔六地蔵尊はよく見かけることができますが、六地蔵と金剛界・胎蔵界の大日如来が共に彫られている八面塔は例をみません。

六地蔵尊とは、六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天上)のすべての世界において救済の手を差し伸べてくれる地蔵尊を表し、地蔵菩薩の功徳の象徴になります。人間は死ぬと六道の何れかに行くといわれ、六道それぞれにあって私達を導いてくれるのです。

永代供養堂

以前は無縁墓地として大きな塔を墓地として建立していましたが東日本大震災で倒壊してしまいました。

錫杖寺の永代供養堂は石で建立されたお堂でお骨をそのまま預かることが可能です。

墓地にお困りの方やご子孫不在などご相談に応じてご案内しております。

十三仏像

錫杖寺の参道に安置されている十三体の仏さまです。

本堂の前に安置されいて、お参りの方を十三体の仏さまそれぞれが見守ってくれます。

なお、この十三仏は、初七日忌から三十三回忌までのご供養の時にお導きをくださる仏さまになります。

ぜひご縁のある仏さま・信仰のある仏さまに手を合わせてお参りください。

錫杖寺の所縁

行基菩薩

錫杖寺の濫觴となる草庵を結んだ行基は、天智七年(668)和泉国大鳥郡峰田(大阪府)に生まれました。十五歳で出家し法相教学を学び、二十四歳のとき徳光禅師の下で受戒しました。文武二年(698)には薬師寺に移りますが、この間には山林修業にも大いに意を注いだといわれています。

やがて郷里に帰った行基は、民衆教化に努める傍ら、布施屋の設置・池溝の開発・架橋などの社会事業に従事しました。行基のこのような活動に人々は「行基菩薩」と称賛しましたが、政府は僧尼令違反として弾圧しました。

しかし、盧舎那仏(東大寺大仏)造立の詔が発せられると、聖武天皇に敬重され、弟子らを率いて積極的に協力し天平十七年(745)日本初の大僧正に任命されました。

また行基は文殊菩薩の化身ともいわれ、天平二十一年(749)二月二日に八十二歳で遷化しました。

願行上人

錫杖寺の中興開山である願行上人は、正しくは憲靜大和尚と称し、後に宗燈律師の号を賜りますが、号を圓満、字を願行と称したことから、一般的には願行上人の名で親しまれています。

『本朝両史』によると「~初め東山泉通寺に住し、また東寺遍照心院に在り、ついで金剛三味院に住す。曽て諸山を経歴して真言宗を拡張し、常に不動尊を修念してまたよくその像を描いた。筆法宅間、住吉に似て頗る神妙を極めたといはる」と記されており、画僧としても知られていたことがわかります。

願行上人は顕密浄律の諸宗に兼通し、なかでも現在の真言宗智山派に大変関係の深い三宝院流の事相を究め、その一流を願行方と称します。

宥鎮大和尚

錫杖寺を中心として、周辺地域に強力な線を張り、関東における真言宗隆昌に尽力したのが、再中興の祖と称される宥鎮大和尚です。

『新編武蔵風土記稿』によると、錫杖寺は「古へ願行上人の結びし庵室なりしを僧宥鎮其後法脈を継ぎて~」と記されていますが、ここにいう法脈とは願行上人の弟子にあたる伊豆流・宥祥の流れを指すと推察されます。伊藤宏見氏は『印融法印の研究』の中で「宥鎮は印融の師三会寺賢継の出身地の南多摩の高勝寺(坂浜)の第七世ではないかと思われる」と述べています。

延徳三年(1,491)しばらく錫杖寺に止宿して『諸尊表白抄』等を著し、談林を起こし宗風宣揚に尽力した印融法印は、宥鎮大和尚とは同年代の僧であり、この両僧の間には当然繋がりがあったとみるべきでしょう。先述の『印融法印の研究』には「宥鎮は印融流のこの地方での教団組者であったかもしれない」と記されています。

印融法印

錫杖寺は「宗祖弘法大師の再来」と尊崇された印融法印ゆかりの地でもあります。

印融法印は関東各地の真言宗寺院の復興に努めるとともに、密教教学の興隆にも尽力したことでも知られ多くの著作が残されており『諸尊表日抄』は錫杖寺で著されました。奥書に「延徳三年辛亥四月一日、於武州足立郡河口錫杖寺において、求法弟子の所望によってこれを抄す。沙門印融」(原稿は漢文)と記されています。

弟子らに求められてこの『諸尊表日抄』が著されたとすると、この地の弟子達は水準の高い学僧の集団であったことがわかります。この頃から印融法印の著作は小規模なものから次第に重厚な教祖の輪書に移って行きます。学徳とともに円熟期に向かう転換期に錫杖寺での止宿があるわけです。

関東十一談林

錫杖寺は関東十一談林のひとつとして、全国から集められた多くの学僧の育成にあたりました。談林とは談林所であり、鎌倉時代の談議所を起源とするといわれています。

談林は常法談林と談林格があり、さらに古談林と新談林に区別されます。古談林は中世以来の談林、新談林は智積院・小池坊両能化より免許を受けた談林をいい、享保年中(1,716~1,735)以降増加しました。また談林格とは一代談林、常法談林とは永代談林のことで、錫杖寺は古談林、常法談林として、真言宗門隆昌の重要な一翼を担っていました。

院室兼帯同院

錫杖寺は外壁の線の本数が5本線であることからも分かるように、院室兼帯同院としても知られています。平安時代に仁和寺などで出家した皇族を院家衆といい、その法脈を継承した住坊を院家といいます。さらに仁和寺・大覚寺・勧修寺・醍醐寺は院家の外に貴族出身の学侶の坊舎をおいて一山伽藍を成立しました。この坊舎を院室といいます。

近世初期の頃になると、有住院家・院室は少なく、その多くは名跡のみとなっていました、これらの院家・院室の外様住居として法脈を継承したのが院室兼帯です。院室兼帯には、僧に与えられた一代院室兼帯と、寺格である永代院室兼帯に分けられ、錫杖寺は永代院室兼帯寺院で「十六菊」の紋を与えられました。

そのため錫杖寺では、徳川家の御紋である「徳川葵」だけでなく、本堂には「十六菊」の御紋を見ることができます。