錫杖寺の興隆

錫杖寺の興隆 略年表

   慶長八年(1603)

江戸幕府を開く。


元和元年(1615)

真言宗諸法度が発布され、当山は醍醐三法院と本末関係を確立。真言宗関東七か寺の一つに数えられ、醍醐寺の院室を兼帯する。


元和二年(1616)

徳川家康歿。


元和八年(1622)

十月十二日、二代将軍秀忠が日光参詣の途中当山に休息す。


元和九年(1623)

四月十三日、三代将軍家光が日光参詣(初)のおり当山を休息所と定む。以来、休息が吉例となる。


寛永三年(1626)

家光より「金子幷材木」を拝領し、御成御門を建立す(『由緒書上』より)


寛永十二年(1635)

参勤交替制度の確立。寺社奉行が設置される。


寛永十七年(1640)

寺請制度確立す。


寛永十八年(1641)

九月、宇田川氏の信施により梵鐘を鋳造(『梵鐘銘』)し、鐘楼堂建立す。鋳造は長瀬治兵衛守久による。


寛永十九年(1642)

代将軍家綱、疱瘡にかかる。特命により当山、病気平癒のための祈祷を修す。


寛永年中(1624~43)

寺運隆昌す。末寺、又末寺を含め五十三か寺を有す。庶民の間に寺社詣でが盛んになる。当山への参詣人あとを絶たず。


延宝八年(1680)

七月、綱吉、五代将軍となる。


延宝九年(1681)

正月より由緒寺院として年頭独礼の格式を与えられる。九月、天和と改む。


享保元年(1716)

吉宗、八代将軍となり「大改革」を行う。享保年中、大飢饉あり。


元文四年(1739)

二月、八代将軍吉宗鷹狩り。当山御膳所となる。以後しばしば当山を訪れる(『有徳院殿御実紀』より)


寛延四年(1751)

六月、幕府より「納経拝礼」を命ぜらる(『由緒書上』より)


文化十三年(1816)

三月八日、『遊歴雑記』の著者津田十万庵が当山を訪れ『川口の驛錫杖寺』を記す。


天保四年(1833)

『錫杖寺由緒書上』を提出する。


天保九年(1838)

災禍に罹り、当山堂宇焼失す。諸尊像は無事。


天保十二年(1841)

本堂はじめ諸堂宇再建。


弘化二年(1845)

三月二十日、本尊および天満宮社開張(『武江年表』より)

嘉永五年(1852)


八月、川口町大火。当山諸堂宇焼失す。諸尊像は無事。


安政二年(1855)

十三代将軍家定の命により駒込の白山御殿の一部が下賜され、本堂、書院等再建す。ただし十月、安政大地震あり。

天正十八年(1,590)徳川家康が江戸に入部し、慶長八年(1,603)には江戸幕府が開府しました。錫杖寺周辺は天領となり、名主となった宇田川氏は大田道灌の旧臣で、以来幕末まで当山と深い関連を持つようになります。

元和元年(1,615)には真言宗諸法度が発布され、全国各地の本末関係が確立されます。錫杖寺は寛正元年(1,460)より醍醐三宝院の直末寺でしたが、醍醐寺の院室を兼帯し真言宗関東七ヶ寺に数えられるのはこの頃からの事でしょう。

元和二年(1,616)徳川家康が歿し、七回忌にあたる元和八年(1,622)十月二十二日、二代将軍秀忠が日光参拝の折に錫杖寺を休憩所と定め、以降はこれが吉例となり徳川家と深い関わりを持つことになります。『新編武蔵風土記稿』に「元和年中台徳院殿(秀忠)日光御参拝ノ時、御小休トシテ成ラセラレシ後ハ、旧例トナリテ御参拝ノ度御小休所トナレリ」と記されています。

寛永三年(1,626)錫杖寺は三代将軍家光より「金子幷木材」を拝領し、御成門を建立しました。この御成門は将軍家が日光参拝の折に当山に立ち寄られた時にのみ開門される慣わしとなりました。また将軍家が休息し、昼食をとられる御座所(御殿)が建立されました。これは『大猷院殿(家光)御実紀』によると、家光が三代将軍となって初めて日光参拝したのは寛永五年(1,628)四月のことで、錫杖寺には二十二日に立ち寄ったことを記しています。

寛永十七年(1,640)幕府によって寺請制度が公布されます。切支丹禁圧にともなう宗旨人別改めが重要な目的でしたが、この制度によって檀家制度が確立されました。寺請制度が近世仏教の庶民への布教に大きな貢献を果たしたといっても過言ではありません。

寛永十八年(1,641)九月、宇田川四郎右衛門によって銅鐘が寄進されました。長瀬守久の鋳造によるもので、美術的にも川口鋳物史上でも貴重なもので、埼玉県有形文化財に指定されています。

慶安元年(1,648)九月十七日、錫杖寺は御朱印二十石を拝領しました。内容は『武蔵国足立郡川口村錫杖寺領同村之内弐拾石事、新寄附之訖、全可収納ナラビニ寺中竹木諸役等免除、永不可有相違者也』というもので家光の花押が記されています。錫杖寺にはこの家光の朱印状はじめ、歴代将軍による8通の朱印状が所蔵されています。

錫杖寺の寺運が隆昌し、末寺・末寺を含め五十三ヶ寺を擁するのもこの頃のことで、七堂伽藍を備えた境内の学寮には、諸国から参集した多くの学僧たちが、勉学に励んでいました。また将軍家の帰依厚い祈願所としても知られ、将軍家の諸々の祈祷を修する命が下されています。

延宝八年(1,680)五代将軍綱吉によって、錫杖寺の歴代住職は年頭にあたって将軍に「独礼」する栄誉が与えられました。その折「五本入扇子箱」を献上する慣しであったと『由緒書上』に記されています。

元禄年中(1,688~1,703)になると庶民の生活も安定し、物見遊山をかねた寺社詣でが盛んになります。錫杖寺の御本尊延命地蔵菩薩や境内の天神社・不動堂・観音堂などに参詣人々があとを絶たなかったといわれるのもこの頃のことでしょう。

享保元年(1,716)紀州の徳川吉宗が第八代の将軍位を継承しました。吉宗は家康を手本とすることを信条とし、武芸や学問、特に実学の奨励、新田開発の推進などを行い、幕府中興の英主と呼ばれています。吉宗は元禄以降武士が柔弱になり、遊惰の気が漲っている実状をみて率先してこれを打破しようとしました。流鏑馬を復興したり、馬上の太刀打や槍をもっての試合なども奨励しましたが特に好んだのは鷹狩りでした。これによって旗本・御家人を戦場にあるがごとく訓練しようとしたわけです。

元文四年(1,739)錫杖寺はその鷹狩りの折に「御膳所」に定められました。『由緒書上』によると「~御膳所被仰候年月、如左」として元文四年に二度、寛保元年(1,741)に二度の期日が記されています。

寛延四年(1,751)六月二日に吉宗が歿し、錫杖寺は九代将軍家重の命により追悼供養を行っています。歴代将軍が歿する毎に、錫杖寺では追悼供養が命ぜられていました。


錫杖寺は色々な紀行文や随筆のなかに登場しますが、津田十万庵の『遊歴雑記』の「川口の驛錫杖寺」と題する一文が江戸時代における錫杖寺の山容を的確に表現しているといえましょう。津田十万庵が錫杖寺を訪れたのは文化十三年(1,816)三月八日のことです。この日はことさら長閑な一日であったらしく「その路すじ花に愛鳥になぐさみ、路傍の草花樹々の芽吹面白く、見るもの一々みな感あり賞あり」との道中を経て錫杖寺に至ったと記しています。また「同宿表町錫杖寺は驛の上西側にあり、通用門は右に、御成門は左にふたつともならべて建て常に閉せり、是日光御社参の節、此寺御膳所になるが故なり、本堂は東に向い観音堂は北向に建ぬ、本堂の前に撞鐘あり、むかし宇田川氏世襲の砌寄進せしと見ゆ、宇田川は大田道灌の臣たりし、今も同村に後裔ありとなん、撞鐘の銘略して写し置左のごとし "寛永十八年辛巳九月 施主宇田川宗慶 於舟 於甚 於竹 小上郎 武州足立郡川口村錫杖寺道場 宇田川宗寿" とあり、此寺境内の外屋敷広く、墓所は寺内を出東南の方一町ばかり、代々の寺僧 宇田川の墳墓こゝにあり、慶長いらいの古墳若干見えしかと管々しきまゝ書留ず、就中路傍に土筆芽のは類夥しく芸て摘度も此日風起りて寒し、未の半刻も過ぬらんと思へば、吾帰路の遠きを厭て立出ぬ、然るに境内の高樹の頂上に、鶴の巣喰て悠然と遊べるも又めずらしく、或は遠近の風景見洩さじと、己々が舎を急ぬ、是より西の駅鳩ヶ谷へ壱里ありとかや 」と当時の様子が詳細に記されています。


天保九年(1,838)錫杖寺は災禍に罹り諸堂宇を焼失しました。天保十二年(1,841)壇信徒諸家の信施によって再興されますが、嘉永五年(1,852)八月、川口町の大火によって再び灰燼と帰してしまいました。幕府開創以来、徳川家と深い関わりをもつ錫杖寺の焼失を惜しんだ十三代将軍家定は、駒込の白山御殿の一部を下賜し、錫杖寺の再興を命じました。