本年は大奥御年寄瀧山没後150年にあたります!
そこで菩提寺である錫杖寺は瀧山家のご協力のもとに
ご供養を行うことにいたしました
昨年のトーク&セミナーでは大変多くのご参加をいただきました
今年は本堂に門外不出の瀧山の位牌を安置し
稀代のリーダーを讃え参加者で手を合わせます
特別法要では没後150年の
今年しかできないご供養をお届けします
この機を逃せば2度とお位牌は拝見できないかもしれません
ぜひご参加ください
<お申込先>
一般社団法人川口市旅行観光協会
こちらよりお申込ください。
または
錫杖寺まで直接お申込ください。
<お問合せ先>
錫杖寺(048-222-2046)
一般社団法人川口市旅行観光協会(048-224-1018)
大奥御年寄 瀧山について
江戸時代、将軍家の奥向きとして、多くの女性たちが暮らしていた「大奥」。
その大奥で、総取締役として絶大な権限を持っていたのが「御年寄」という役職でした。
その中でも、幕末から江戸城無血開城に至る激動の時代を生き、大奥最後の御年寄として知られる女性が「瀧山」です。
文政六年(1,823)に16歳で大奥へ上がり、類い稀なる才幹をみとめられ、御年寄に昇進しました。御年寄とは大奥の総取締役として「表」の老中に匹敵する大奥第一の重役を表します。瀧山は十三代将軍・家定が世子(世嗣)の頃から西の丸の御年寄をつとめ、家定が将軍位を嗣ぐとそのまま家定に従って本丸に移り御年寄となり、十四代将軍家茂の代にわたって御年寄をつとめました。
十四代将軍継嗣問題で、紀州の徳川慶福を擁立する「南紀派」と一橋慶喜を擁立する「一橋派」が対立し、幕府の重臣や有力諸侯はもちろん、江戸城大奥の中にも激しい対立と抗争がおこりました。瀧山はこの対立抗争にあたって、大奥の慣例に従い慶喜の擁立を阻止したことで知られています。
結果として十五代将軍位を慶喜が嗣ぐことに伴い大奥を退きました。
瀧山は大奥を退いた後は侍女の仲野の生家があった川口にて過ごし、明治九年(1,876)一月十四日に七十一歳で歿し、錫杖寺に葬られました。